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ピアニスト岡田奏さんインタビュー その1(5月28日「名曲全集」)

2017.05.26

From_Muza

5月28日に開催する「名曲全集 第127回」に出演するピアニストの岡田奏さんは、昨年エリザベート王妃国際音楽コンクールのファイナリストとなったことが記憶に新しい、期待のピアニストです。今回、はじめてミューザで東京交響楽団と共演する岡田さんに、これまでのピアノ人生、そして今回の曲目について伺いました。

(c)Riho Suzuki

インタビュアー 小室敬幸(作曲・音楽学)

――そもそも、ピアノをはじめられたきっかけは何だったんでしょうか。
両親ともにピアノを弾いていたので、家にピアノが普通にありました。だから、最初はおもちゃの感覚で2歳ぐらいからピアノを触っていたようです。
ピアニストである父は身体が結構大きいので真似して、あっちいったり、こっちいったりしながら鍵盤を触っていたら、ピアノの椅子って左右の手すりがないので、そのまんま「ぐわっ」と落っこちたりして(笑)
そして3歳頃からは、外の先生にピアノを習うようになりました。

――プロフィールを拝見すると、その後8歳のときにはリサイタルを開かれたとのことで早熟ぶりがうかがえます。ところで、そのまま日本で勉強して国内の音楽大学に進学するという選択肢もあったかと思うのですが、何故いきなり15歳のときにフランスへ留学されたのでしょうか。
9歳の頃に一度、オーストリアのウィーンとか、オランダとか、フランス、ポーランドとか、ヨーロッパの色々な国に行ったことがあるんです。そのなかでパリを訪れたときに、すごいインスピレーションを受けたんです。「わたし、この国が大好きだ!」と思って(笑)。

――パリの何が、そんなにも9歳の岡田さんを惹きつけたのでしょう。
景色とかもそうですけど、食べ物だったり、言葉だったり、人の雰囲気、出で立ちだったり、色々なことに凄く興味をひかれたんです。その時はフランス人の先生にレッスンを受けたりもしましたが、そのレッスンが楽しかったというのもありますね。パリには3日間の滞在だったんですが、それから6年間、向こうに行くまでその体験が忘れられなかったんです。
中学校までは義務教育だから終えて、丁度いい区切りの15歳の時、ずっとパリに行きたいという思いが強かったので留学する決意をしました。

――念願のパリに留学……でも15歳ではじめての一人暮らしが海外となると、ご苦労されたんではないでしょうか。
やっぱりフランス語をしゃべれないと同じ立場で話してくれないというか、「どうせ分からないから!」みたいな対応をされるのが凄く嫌でした。だからレッスンは「英語でもフランス語でも出来るけど、どっちにする?」って先生に聞かれたんですけど、フランス語でお願いしました。留学していたパリ音楽院には日本人も沢山いるんですけれど、なるべくだったらフランス語を喋れるひとと過ごそうと思いながら、まずはフランス語をがんばりました。
それでもやっぱり色々と嫌な思いもしましたね。もちろん日本と違ってサービスも「お客様は神様」といった感じではないですし。向こうの意見を凄く言ってきたりもするので、郵便局とかでも「言葉はわからないけど、私怒られてる?!」ってのだけは、怒鳴られているから分かるんですよ(笑)。あとは生活習慣だったり、考え方だったり、性格だったり……って本当に何もかもが違っていて、でもそういうことを10代のうちに経験できたというのは本当に有難かったかなと思っています。

――そうしたすったもんだが落ち着くまでは、どのくらい時間がかかりましたか?
3年くらいは、かかりましたね。やっぱりそれまでは全部が一心不乱で、全てのことに100%以上頑張ってたわけですから。自分も慣れてきたので生活するということに余裕がもてるというか、食べたりとか話したりとか出かけるのも余裕をもってできるようになったのが3年くらいですね。その頃には普通に会話もできるようになっていました。

――留学後にフランスで受けたレッスンや授業は、日本で受けた教育と比べてやっぱり大きく異なっていたのでしょうか。
全ての方針が違っていて、もう根本的に音楽の捉え方、聴き方、感じ方、全部違っていたんですよ。それが全部初めてのことだったので、最初の頃は言われた言葉を字面通りと言いますか、そのまま捉えてしまうということがあったんですけど、その言葉の裏にある背景だったりとか、何故そう思うのかってことが考えていくにつれて理解もできるようになりましたし、面白いなあと思うようになりました。
ヨーロッパの音楽をやっていく上で、本場でそういうものを感じられるというとても魅力的なレッスンを受けられたし、日本とは良い面でも悪い面でもまた違った考え方だったり捉え方だったりっていうのを、勉強できたのかなと思っています。

――そのなかで、特に大きな影響を受けた先生はどなたですか。
ソロで最初の4年間はジョルジュ・プルーデルマッハー先生という、もうお爺さんの先生に習っていました。先生は根本的な音楽のとらえ方だったり、私の「耳」をつくってくださった方です。縦の響き、横の流れのバランス感覚を学ばせていただきました。
そのあと修士からついたフランク・ブラレイ先生には、音楽家としての生き方や考え方だったり、どういうふうに自分で、自分自身の、自分だけの音楽を作るかということを学ばせていただきました。特に「楽譜の読み方」というものを教えていただいたっていうのが、そのお二人かなと思っています。室内楽では、イタマール・ゴラン先生に習いました。

――イタマール・ゴランといえば伴奏ピアニスト、室内楽ピアニストとして間違いなく世界のトップクラスに君臨する、既に伝説的なピアニストですよね。
先生は本当にそれこそ伝説的なレッスンをされる方で、楽譜見ながら「んんんんっーーー!!!」「ノーーーーーーーー!!!!」といった感じで、弾いてる私たちより顔真っ赤にするんですよ(笑)。「フォーールテーーー!!!!!」とか、彼自身は弾いていないのにもう凄いんです。少し離れたところで聴いていらっしゃるのに、こっちまでその気迫が伝わってくるような激しさなんです。とても厳しかったので、楽譜の一段だけで一時間のレッスンが終わってしまうことがよくありました。
でも彼はフランス語を話されないので、レッスンは英語かロシア語でしたね。私の室内楽のパートナーがロシア人だったので、彼にはロシア語で話して、私には英語といった感じです。あんまりフランスではお目にかかれないようなレッスンでしたね。ああいうレッスンというのは彼しかしないかもしれない。いろいろな視点から、沢山のことを学びました。

――15歳で留学し、いつ頃まで音楽院には在籍されていたんですか。
パリ音楽院にいたのは去年までですね。ピアノ科だけでなく、室内楽科もいきましたし。そもそも最初は学部から行ったので、そのあと修士と、アーティストディプロマというのがあって10年間どっぷりと毎日通ってました。

――これまでに数多くのコンクールで素晴らしい成果を残されていらっしゃいますが、コンクールに出場したのはご自身の意志だったのでしょうか。
全て自分の意志で決めました。「何をしなさい」ってのをあんまり言わない先生ばっかりだったので、コンクールを受けたいって言ったら「ああ、それは合ってるね」とか「それはどうだろう」っていうアドバイスはおっしゃられましたけど、「これをやれ」っていうのは全然言われなかったですね。私が受けたいなあと思うものを相談して受けていました。

――コンクールを受ける目的はどのように考えていらっしゃっていたんですか?
自分の力試しという面と、自分が今どのくらいのレベルにいるのか、立ち位置にいるのかということを客観的に確認する意味でも1年に1回は少なくとも受けようって思って受けていました。
他にも頑張ってる色々な外国からの同じぐらいの世代の音楽家が集まるので、そこでの出会いっていうのもすごく楽しかったですし、そういうところで受ける刺激だったりとか、それによって色んな国にいけるってのも大きかったですね。
あとは、たくさんの曲をいっぺんに、すごいレベルまで持ってかなきゃいけないってのは、ちょっとずつやってないと出来ないことでもあるし、慣れて行かなきゃいけないとも思ったし。将来、コンサートピアニストになるために慣れておきたいってのが、一番だったんですよね。

――これまで受けたなかで、特に印象に残っているコンクールはありますか?
今のフレッシュな記憶だとやっぱり、去年のエリザベート王妃国際音楽コンクールですね。それまでに受けたコンクールと全然違っていたので……というのも、1週間まったく外部とコンタクトをとれずに、新しい曲を本選に向けて準備するっていう課題があったんです。初見の授業とかで新しい曲を短時間で弾くことはあったにせよ、1週間後に2000人のお客さんの前で披露できるように、それまで聴いたこともなかった曲を自分ひとりで仕上げろと。
12人のコンテスタントが1週間、同じところで生活を共にして、やる事といったら練習しかないわけですよね。あとは寝るか、食べるか(笑)。でも、それが意外にも楽しかったんです。いまの情報過多な、携帯電話やスマートフォンをずっと持っていることで、インターネットに接続されているという感覚自体をストップした1週間は、本当に有意義で、印象深い1週間だったんです。その体験で得たものというのも含めて、もう後にも先にもないようなことをできたという記憶が鮮明に残っています。
そこで出会った他の11人のファイナリストとは現在もすごく仲良いんですよ。グループメッセージ、チャットがあったりとか(笑)。ライバルだったけれどいい絆というか、同じものをやらなくちゃいけなかったので、最後は「大変だよね!?」「とりあえずこれ弾けるように頑張ろう!」みたいな感じでした。

(インタビューその2へつづく)

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