フリーランス音楽家を やめようとしたベートーヴェン ~かげはら史帆のベートーヴェンコラムvol.3~
2020.07.21
『田園』『運命』が初演された1808年。
38歳のベートーヴェンは、フリーランス音楽家をやめようかと考えていました。
実はこの2つの交響曲の初演の裏で、ベートーヴェンはあるオファーを受けていました。ナポレオンの弟ジェロームが王座についている「ヴェストファーレン王国」の宮廷楽長への就任の誘いでした。
「ベートーヴェンは王侯貴族を嫌ったゆえにフリーランス音楽家の道を選んだ」──多くのベートーヴェン伝にはそんな説明が書いてあります。しかしこれは結果論にすぎません。安定した音楽環境を求めるのは、プロのミュージシャンとして当然のこと。宮廷から声がかかって、ベートーヴェンの胸はおどったに違いありません。
そんな折に行われた『田園』と『運命』の初演は、練習不足や暖房設備の不備がたたって大不評。聴衆からブーイングを浴びる羽目に陥ります。ウィーンから離れ、宮廷楽長として新しい音楽生活を始めたいという思いは、この初演を経ていっそう強くなったことでしょう。
しかし、ベートーヴェンを引き止めた人たちがいました。それは若い頃から彼を見守ってきたウィーン在住のパトロンたち。翌1809年初頭には相次いで年俸の支給が決まり、彼は宮廷からの誘いを蹴る決断をしました。もし彼が宮廷楽長の道を選んでいたら──のちに書かれた『第九』をはじめとする数々の作品は、世に生まれなかったかもしれません。
(かげはら史帆/ライター)
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かげはら史帆
東京郊外生まれ。著書に『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房)『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)。ほか音楽雑誌、文芸誌、ウェブメディアにエッセイ、書評などを寄稿。
https://twitter.com/kage_mushi