©Miki Yamanouchi
《グレの歌》について考えるとき
私の頭の中には二人の画家が浮かびます
2016年にジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のモーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》で舞台監修とドン・アルフォンソ役を務めたトーマス・アレン(Br)。今年10月にはミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年記念公演のシェーンベルク《グレの歌》で、再び同コンビと共演する。来日を前に、ロンドンで話を聞いた。
取材・文=後藤菜穂子
(「音楽の友」2019年9月号より転載)
シェーンベルク《グレの歌》の不思議な世界
——今回シェーンベルク《グレの歌》で共演される指揮者のジョナサン・ノットさんとは、どのような出会いでしたか?
アレン(以下A) ノットさんとの初仕事は、2012年にバンベルクでの《コジ・ファン・トゥッテ》に招かれたときでした。彼の熱心な仕事ぶりはとても印象的で、オーケストラも素晴らしく、実りのある体験でした。その後(16年)、東京交響楽団との《コジ~》でもドン・アルフォンソ役に加えて演出も担当できて、とても楽しい公演でした。
——《グレの歌》では「語り手」を担当されますが、これまでこの役は歌っていらっしゃしますか?
A これまで2度歌っています。2015年にエドワード・ガードナー指揮ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏会(とライヴ録音)が初めてで、その後2017年に英国マンチェスターでマーク・エルダー指揮のハレ管弦楽団とBBCフィルハーモニックとの合同演奏会でも歌いました。今朝、楽譜を見ていて思い出したのですが、このときはちょうどマンチェスターで大きなテロ事件があった直後で、公演前に短いスピーチを頼まれたので、「音楽によってこの悲劇の痛みが少しでも緩和されることを願う」というような話をしました。
――《グレの歌》の語り手というのは、この壮大な作品の中でどのような役どころなのでしょうか。
A 《グレの歌》はとても不思議な世界で、この曲について考えるときに私の頭の中に浮かぶのは二人の画家、ルネサンス期のオランダの画家ヒエロニムス・ボスと英国の19世紀の画家リチャード・ダッドです。二人ともとても独創的で、魑魅魍魎としたおどろおどろしい世界を描きました。《グレの歌》もそんな世界だと感じています。ヴァルデマールとトーヴェの愛の物語、山鳩の歌などを経て、第3部で突然曲の雰囲気が変わり、「シュプレッヒゲザング」(歌い語り)の手法が用いられます。これは歌と語りの中間のようなもので、いわば詩の朗読にも似ていますが、シェーンベルクはある程度、言葉の音高を楽譜に指示しています。なかには語りよりも歌に近い形で表現したい部分もありますが、その解釈についてはノットさんと相談していきたいと思います。語るにせよ歌うにせよ、最後は極めて高い音域になります。
ヒエロニムス・ボスの代表作「快楽の園」 出典:Wikipedia
リチャード・ダッドの代表作「お伽の樵の入神の一撃」 出典:Wikipedia
オペラ歌手としての多岐にわたる活動を振り返って
——アレンさんはオペラ歌手として、モーツァルトから近代まで多岐にわたる役を歌ってこられました。ご自分の声はどんなタイプのバリトンといえますか?またどのように役選びをされてきたのでしょうか?
A 「ドラマティック寄りのリリック・バリトン」とでもいえるでしょうか。ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》ではハンス・ザックスではなくベックメッサーのタイプです。高い音域も出るので、テノール役のモーツァルト《イドメネオ》の高僧を歌ったこともありますが、ワーグナー《ワルキューレ》のジークムントを歌わないかと言われたときはお断りしました。向いていたのはドビュッシー《ペレアスとメリザンド》のタイトルロール、レハール《メリー・ウィドウ》のダニロ、J.シュトラウス《こうもり》のアイゼンシュタインなどテノールとバリトンの間の役です。何よりもペレアスを歌っているときがいちばん幸せでした。
役選びについては、私の師だったジェイムズ・ロックハートから「君の声はティート・ゴッビのような、レーザーのように通るドラマティックなバリトンではなく、ビロードのかかったソフトな色合いの声なので、無理しないように」と言われてきました。
若い私にとって大きな転機となった公演は、1977年英国ロイヤル・オペラ・ハウスでのグノー《ファウスト》でした。アルフレード・クラウス、ミレッラ・フレーニ、ニコライ・ギャウロフという錚々たるスター歌手にまじって、私はヴァランタンを歌ったわけですが、この舞台がその後のキャリアへの鍵となりました。この時点で、ドラマティックなバリトンの道を目指すのか、もっと普遍的なバリトンを目指すのか選べたわけですが、私自身はモンテヴェルディもモーツァルトもシュトラウスも歌って、ヴェルディやプッチーニも少しだけ歌いたいと思ったので、後者の道を選んだのでした。
——歌いたかったけれど歌わなかった役はありますか?
A ヴェルディ《ファルスタッフ》のタイトルロールを歌わなかったのはちょっと後悔しています。何度かお話はいただいて、たぶん引き受けるべきだったのでしょうが、チャンスを逃してしまいました。あと《シモン・ボッカネグラ》のタイトルロールも歌ってみたかったです。若い頃ウェールズでパオロ役を歌ったことがあって、海を描写したヴェルディの美しい音楽は長いこと記憶に残りました。
©Miki Yamanouchi
来日公演の思い出と
オペラ演出で心がけること
——アレンさんは英国ロイヤル・オペラ、バイエルン州立歌劇場、メトロポリタン歌劇場などの引っ越し公演で何度も来日されていますが、初来日はいつでしたか?
A 1979年、コリン・デイヴィス指揮英国ロイヤル・オペラの来日公演が初でした。とにかく初めての日本でしたし、すべて新鮮に映りました。このときはブリテン《ピーター・グライムズ》とネッド・キーンとモーツァルト《魔笛》のパパゲーノを歌いました。そもそもパパゲーノというのはとても魅力的な役ですが、このときは公演後楽屋口に多くの若者が来てプレゼントをくれたり、握手を求められたり、束の間、パヴァロッティのようなスターになった気分でした(笑)。
——英国ロイヤル・オペラとはもう一度来日されていますね
A 1992年、このときはベルナルド・ハイティンクの指揮によるモーツァルトの「ダ・ポンテ三部作」ツアーで、《フィガロの結婚》の伯爵と《ドン・ジョヴァンニ》のタイトルロールを歌いました。スケジュールが厳しく、伯爵とドン・ジョヴァンニを2日連続で歌わなければならないこともあり、とても不安だったのですが、実際はとても楽しくて、ロンドンのミュージカルで毎日歌う歌手の気分を味わいました(笑)。このときのハイティンクはとにかく素晴らしくて、特に《ドン・ジョヴァンニ》はロンドンでは賛否両論だった暗い陰鬱な演出だったのですが、東京公演では軌道に乗り、指揮もものすごくエネルギッシュで、最高の公演でした。
オペラ以外ではジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団のマーラー全曲演奏会に参加し、「交響曲第8番」、《嘆きの歌》、《さすらう若人の歌》、《亡き子をしのぶ歌》など、マーラーの歌つきの管弦楽作品を歌ったのもよい思い出です。
——ところでアレンさんは長年、オペラの演出も手がけていらっしゃいますね。
A はい、20年ほど前から演出をしています。長年舞台に立ち、いろいろな演出家に指示されて役を演じるなかでいつしか自分でも舞台を作ってみたいと思ったからです。デザイナーとともにアイディアやコンセプトを練り、模型を作り、プロダクションを作り上げるプロセスはわくわくします。
一般にオペラの初稽古に行くと、「君はこういう役柄でこのように動くように」と一方的に指示されることが多く、演出家やデザイナーが作り上げたものをそのまま再現することに慣れていました。でもそうしたなか、昨年亡くなられた英国の演出家ピーター・ホールは、歌手たちのアイディアや個性を重視し、それを演出に活かしてくれる人でした。私自身も彼のように、歌手個人の特色を活かすような演出をつねに心がけています。
——ますますのご活躍を楽しみにしています。ありがとうございました。