Interviewジョナサン・ノット
フィガロは三部作の中で
最も多く指揮した作品(前編)
取材・文:松本學
今年がちょうどデビュー30周年となるジョナサン・ノット。東京交響楽団とのパートナーシップも、就任時の蜜月状態のホットさそのままに早くも5年目の半ばを過ぎた。ミューザ川崎を舞台に3年にわたって上演してきたモーツァルト・トリロジーも、いよいよ完結編となる《フィガロの結婚》が目前に迫る。
――まず最初に、ノットさんの《フィガロ》との関わりをお聞かせください。バンベルク時代には序曲のほか、2005年にダムラウとスザンナのアリアを1曲だけ採り上げていたのは覚えているのですが、《フィガロ》全曲は演奏されていませんよね。
ダ・ポンテの3作品の中でも最も多く指揮しています。それだけでなく、私は最初は歌を学んでいて、マンチェスター時代には抜粋ながらバジリオを歌ったりもしていたんですよ。その後、オペラ・スタジオで大きなシーンを2、3つ勉強しました。コリン・デイヴィスが来て、マスタークラスを開いてくれたのを覚えています。
それから、オーディションを受け歌劇場のコレペティトゥアとなったので、歌手と一緒に歌い、彼らにキューも出さなければならなかったため、スコアを学ぶ必要に迫られました。結果的に全パートの歌詞を覚えてしまったくらいでしたね。
――東響&ミューザとのトリロジーは、《コジ》、《ドン・ジョヴァンニ》、そして《フィガロ》と、作品の出来上がった順をさかのぼるように進められてきました。
そう、逆の順番でやったのですが、《フィガロ》が一番経験があったわけです。《コジ》は数回指揮したことがありましたが、《ドン・ジョヴァンニ》は実は全曲をやるのは初めてでした。
――ノットさんとモーツァルト・オペラというと、古くはフランクフルト時代に《偽りの女庭師》K196をやられていましたね。
フランクフルト歌劇場には最初はコレペティトゥアとして入りました。私としては1年間だけにしたかったのですが、2年契約制度しかなかったのでそのようにしました。1年経って当時の監督のベルティーニに話をして、指揮させてもらえるようになったんです。結局4年間いて、何曲かオペラを指揮しました。《偽りの女庭師》は2年目ですね。
幸いにオペラを広く手がけられたのは第1カペルマイスターとして赴任したヴィースバーデン時代です。自分にとっては大きなステップでした。《オテロ》も《ドン・カルロス》も《椿姫》、《ボエーム》、《蝶々夫人》も、そして《フィガロ》も、30曲近い作品を96公演ほどもやったんですよ。ワーグナーの《指環》を初めて指揮したのもヴィースバーデンでしたね。ただ、ここはいわゆるドイツの定番レパートリーの劇場なので、新演出の場合はもちろん別ですが、日常のレパートリー公演の時はリハーサルはやらせてもらえず、とにかく本番という……(笑)
――バンベルク響、そして東京交響楽団&ミューザ川崎とオペラ・プロジェクトをやろうとした理由は?
シンフォニー・オーケストラのためオペラ演奏の経験がないからです。東響はともかくバンベルク響はオペラを上演したことがなかったので、体験するべきだと考えたのです。16年間で10作品ほどやりました(註:参照)。バンベルクで《コジ》をやった時、私が若い学生の頃にオペラ・スタジオで会ったことのあるトーマス・アレンに来てもらったのですが、それが本当に素晴らしい体験だったので、東響ともまたこの作品の素晴らしさを共有したいと思ったのです。さらに、川崎はザルツブルクの姉妹都市なんですよね。それを知った瞬間に、もうこれはやるべきだと思いました。
筆者註)
《コジ・ファン・トゥッテ》は2012年7月にバンベルクで3公演上演されている。
なお、ノットがバンベルクで採り上げたオペラは9作品。
2000年 トリスタン(各幕を順に)
2001年 ジークフリート(各幕+全幕)
2001年 ボエーム第3幕
2002年 フィデリオ
2004年 ヴァルキューレ
2005年 トリスタン(エジンバラ音楽祭)
2007年 ラインの黄金
2012年 コジ・ファン・トゥッテ
2013年 神々の黄昏(バンベルク各幕)
2013年 《指環》(ルツェルン音楽祭)
2015年 ファルスタッフ(バンベルク&ルツェルン音楽祭)
それぞれの役柄に共有できる優しさがある
――《フィガロの結婚》における真の主役は誰だと思われますか?
それを考えせるのもこのオペラの面白さや、作者たちの賢さを感じさせますね。それぞれの役柄に一緒に共有できる優しさがある。主役はもしかしたら伯爵夫人かも知れません。次第に愛が無くなってゆくことや、年齢を重ねてゆくという共通点から、《バラの騎士》のマルシャリンのようでもあります。《フィガロ》ではちょっと愚かな旦那を持って、この先私の人生はどうなってゆくのかといった感じ(笑)。愛を再び取り戻し、維持しながら過ごしてゆくというこのアイディアは他の登場人物にはないものですよね。
一方、伯爵はというと、彼は貴族です。生まれつき皆から崇められるような身分ではありますが、彼は本作では、新しい仕組みのために古い習慣を諦めなければならない---つまり古い社会と新しい社会の中で引き裂かれていることが象徴されているわけです。これはとても政治的な話です。と同時に《セビーリャの理髪師》では貴族社会の代表者としてとてもよいように描かれていたのに、《フィガロ》では伯爵は一番愚かで、威厳はあまり感じず、道化師のようにすら見える(笑)。ただし、とことん馬鹿にもされてはいない。ロッシーニとモーツァルトでは声域も異なって描かれています。
――2幕の終わりで、それまで“Contessa”と呼んでいたのが、そこで“ロジーナ”と名前で呼んでいます。ああいう人間らしさが出ているところは魅力を感じもしますね。
確かに。
――スザンナこそ中心なのではと思えませんか? 彼女だけがアンサンブル曲のすべてに参加しています。
そう。彼女がほぼすべてのことをコントロールしている存在です。また、彼女が労働者階級と貴族社会の間におけるリンク、結び目の役も担っています。実に賢く、巧みに立ち回る。そう、主役はフィガロでもないし伯爵でもありません。それにしても、モーツァルトっていつもこうなんですよね、きわめて女性の描写がうまく、そして彼女たちが活き活きとしている。《ドン・ジョヴァンニ》だって本当に面白いのは女性のキャラクターかも。
――オーケストラ伴奏のレチタティーヴォ・アッコンパニャート(編注:伴奏付レチタティーヴォ)は《フィガロ》以前では、権力者、すなわち王とか神、あるいは貴族に用いられていたものでしたが、《フィガロ》ではスザンナに与えられていますね。
そう。その上でとてもうまくできていますよね。オーケストラが言葉のリズムに合わせて、キャラクターの情感の変化を表しています。言葉と音楽がとても近しい、密に触れ合っている感じがします。レチタティーヴォとアンサンブルがひとつに融合するような、まるでワーグナーのようなところにすら近くなる。音楽が機知に富み、才気煥発で、知力の動きもとても速い。
――そういえば、《フィガロ》にはウィーン再演時の差し替えアリアなど異稿がありますが……。
それに関しては私はあまり聴きたいとは思いませんね。ちょっとトゥー・マッチでしょう。
→後編(コラムVol.7、11/26公開予定)へ続く