絶賛のうちに幕を閉じたジョナサン・ノット×東京交響楽団(以下、東響)のR.シュトラウス・オペラ・シリーズ第1弾《サロメ》。
期待高まる第2弾《エレクトラ》に向けて、音楽監督ジョナサン・ノットにお話を聞きました。
《サロメ》の振り返りにはじまり、《エレクトラ》の音楽的特徴、そしてオーケストラの色彩をコントロールするための“秘策”が明かされます。
ひとつひとつの対話に、ノットの深い知性とオープンな心、そして常に進化し続ける、という強い矜持を感じるインタビューです。
じっくりとご覧ください。
文:広瀬大介(音楽学・音楽評論)
ジョナサン・ノット(以下JN):すばらしい質問をありがとう。まずなによりも、私は、音楽というのは「自発的な創造」であると信じています。また、それぞれの会場での演奏が独自の「空間」を持つように、そして聴衆の皆さんとの交流ができるように努めています。しかし、この2回の《サロメ》については、やや事情が異なりました。演奏会形式でのオペラの魅力は、公演のわずか数日前に全員が顔を合わせることにあります。ジャズの即興演奏のように、創造的なプロセスがとても速く進行するのです。
JN:私は伴奏が好きですし、東響は非常に才能ゆたかな伴奏者です。ほとんどの歌手は、自分たちがサポートされていること、オーケストラの楽団員が自分たちと一緒に呼吸し、音楽とともに流れてくれることを、とても心地よいと感じています。私は歌手に対して畏敬の念を持っています。自分の身体を使って音楽を創り出すということは、大変ではありますが素晴らしいことです。ただ危険なのは、オーケストラが伴奏だけに集中してしまうと、歌手がすべてのエネルギーをみずからで作り出さなければならなくなります。時には、よきガイドとして、"船を操舵する"ことが最善となることもあるのです。というわけで、サントリーホールでの演奏は、私が「コントロール」することにしました。もちろん、繊細に耳を傾けながら、歌い手たちが心地良く乗ることのできる波になろうと試みつつ。
JN:この定義はおもしろいですね。《エレクトラ》という作品は、シュトラウスがマーラーの『交響曲第8番』のように、「歌われる交響詩」を作ろうとした結果、その境界線を限界まで押し広げたものだと考えています。歌は決して酷なものではないと思いますが、シュトラウスは音楽的、和声的、エネルギー的、音響的、オーケストラ的に、ドラマが持つ残酷さを限界まで拡げたのです。そして歌手は、その止めようのない”ドラマ”と戦うことを強いられるのです。
JN:この質問には指揮者として答えますが、オーケストラの色彩を適切に表現するためには、つねに正しい「空間」を見つける必要があります。オーケストラの色彩は、どの楽器が演奏するかによって決まる部分もありますが、和声の密度を変えることによってもコントロールできます。《エレクトラ》には多調の音楽が多く含まれますが、複雑な和音にはそれぞれ異なる緊張感があります。そこで指揮者は、和音中の不協和音や、より調性的に響く音を演奏する楽器のバランスを変えるのです。低音楽器や分割された低弦によって、シュトラウスが選んだ暗い色を引き出すだけでなく、音楽を呼吸させ、伸縮させて、使われている楽器の大きな音のかたまりが、あたかも海のように、絶えず流れるようにするのです。
JN:私は勉強に勉強を重ね、そして腕を振る。一方で、歌手は呼吸と自分の声をコントロールしなければならない。それは常に「交換」なのです。音楽家は皆、ひとつひとつの音を「どのように」鳴らすかを練習しています。私の仕事は、音楽がどのように構築されたかを共有し、作曲家の意図について結論を提示すること、その音を「なぜ」そう鳴らすのかを提案することです。最終的に答えが見つかることはほとんどなく、提案のコレクションが増えていくだけなので、衝突ということではなく、ただ豊かになっていくだけだと思うのです。
JN:ジュネーヴでの演出では、それまでの《エレクトラ》の経験とは異なる要求が私たち全員に課せられていました。そして、それらを真剣に考えることで、あらたな疑問の数々が生まれました。私にとってむしろ興味深いのは、東響との《エレクトラ》は、東響と《サロメ》を発見した後に続くということです。《サロメ》の経験と知識は、私にとって5回目の《エレクトラ》をどのように啓発してくれるのだろうか、ブルックナーの『交響曲第2番』を弾いた後に『交響曲第7番』を弾くようなものでしょう。ひとは一生進化し続けられる。自分が「知っている」と思っていたことを、すべて疑う勇気が常にある限りはね。
JN:《エレクトラ》を理解するためには、すこし前に作曲された交響詩《ドン・キホーテ》に注目するのがよいでしょう。シュトラウスのあの作品に隠された秘密は、信じられないほど重要で、感動的です。私はむしろ、偉大な劇作家としてのシュトラウスに魅了されています。作曲家としての大きな技量の裏には、かなりもろい部分があるのかもしれません。作曲家はなぜ曲を書くのでしょう?探し求めている答えは何なのか?《ドン・キホーテ》の音楽が訴えたいことは、私たち全員が、心の奥底で自分が進むべきと思う人生を歩むこと、そんなことへの挑戦なのだと感じました。優れた芸術作品には、同時にいくつもの潜在的な「読み」があり、聴き手の成長・変化に合わせて、その「読み」も成長していく。次の演奏は、常に前回の演奏によってさだめられていくのです。