ジョナサン・ノットは、いつも鮮烈な驚きを運んでくる。それは、彼自身が作品を通じて、つねに発見と驚きに啓発され、知的にも感情的にも高揚しているからだろう。
東京交響楽団とはこれまで11年にわたり果敢な冒険を積み上げてきたが、12月に上演されるコンサート・オペラ『ばらの騎士』はひとつのハイライトとなるに違いない。リヒャルト・シュトラウス探究では、彼らは交響詩とオペラ双方での歩みを重ね、オーケストラ芸術の精髄に迫る驚きの成果をもたらしてきた。2022年11月の『サロメ』、2023年5月の『エレクトラ』に続く、シュトラウスのコンサート・オペラ・シリーズの集大成であり、2016年から18年にかけて展開したモーツァルトの“ダ・ポンテ三部作”とも響き合う。
フェスタサマーミューザKAWASAKI 2024のオープニング前日、チャイコフスキーのリハーサルをおえた直後に、東京交響楽団音楽監督ジョナサン・ノットに『ばらの騎士』上演への意気込みをきいた。
聞き手・文 青澤隆明(音楽評論)
「これら3作のオペラは、人生の3つの側面をそれぞれに描く素晴らしいコンビネーションをなしています。私にとってもっとも興味深いのは、『ばらの騎士』が時間についてのオペラだということです。若い恋人たちにとってはいまの瞬間がすべてですが、元帥夫人は時の経過を止めることについて語ります。私たちは時間というものの儚さ、若い恋人たち、そして年をとった恋人について扱うことになります」。
「シュトラウスはホーフマンスタールの才気に充ちた戯曲を、偽ロココ的なスタイルを用いて見事に活かしています。それは現実には存在したことのない世界です。彼らはパスティーシュを採用し、作風の模倣を混在させることで、私たちの時間概念と戯れようと試みました。モーツァルトやロココ風の音楽もありますし、さまざまなワルツが出てきますが、ワルツは18世紀に依拠したものではありません。1910年前後のシュトラウスの巧みな音楽書法も多分に含まれています」。
「ええ。シュトラウスは時代が変わっていくことを痛感していて、ある意味で時間を止めることを望んだのかもしれません。そうした展望をゲームとして愉しみつつ、このような時間の問題に対処することが重要だと思います。
私が強く興味を覚えるのは、『音楽は状況を表現し得るか?』という問題です。音楽はリアルタイムで動いていくものです。しかし、パスティーシュとしてモーツァルトやウィンナーワルツを用い、それをモダンな音楽と結びつけることで、異なる時間の次元と歴史的な視座がもたらされます。その意味でも、このオペラは非常に洗練された音楽創作です。
ライトモティーフもかなり複雑です。私はカットなしに全曲を上演しますので、ストーリー上のコントラストはもちろん、音楽の形式上も、くり返しや転調が損なわれず、大きな調性構造や自然なリズムが途切れることはありません。私たちは『サロメ』と『エレクトラ』でオーケストレーションの内奥に入り込み、知的な興奮を保ちながらドラマを進展させることができましたので、この作品にもたいへん啓発されることでしょう。『ばらの騎士』はウィーンを装ったエンターテインメント以上のものだと私は考えていますから」。
「そのとおりだと思います、シュトラウスには立ち止まる気がなかった。『ばらの騎士』は実に聡明に書かれていますが、ここで彼が逃避や退行をしているとは、私は思いません。いずれにせよ天才的な作品で、際立ってユニークな構築物です。以前のシュトラウスにも増して、独自の立ち位置をとっているオペラだと思います。
『エレクトラ』の次のステップはシェーンベルクのような音楽になるのでしょうが、シュトラウスはそちらの方向には行かないことを決しました。とはいえ、この作品は少なくとも『エレクトラ』と『サロメ』に比肩する程度には多層的なオペラです。喜劇を装うことで、いくらかそれが覆われてしまっているとはいえ……。
『ばらの騎士』はコメディだと考えられていますが、その実まったく喜劇ではありません。最後の三重唱には美しい旋律がありますね。元帥夫人は『私は誓います、私は他の人への彼の愛を愛するでしょう』と言いますが、それはなんと大きな贈り物でしょうか。喜劇的なバーレスクはもちろんありますが、このオペラはとても心に響く作品なのです」。
「ええ、全幕を上演するのは今回が2度目です。だからより賢くなっていますよ(笑)。東響とこの複雑な作品に臨むに際し、私はオーケストラのパート譜一式を自分で購入して、フレージングや音符にあらゆる書き込みを加えています。最初のリハーサルから同じ考えを共有して、そこから詩が始まり、興味深い演奏ができるように」。
「たしかに誰も死なない(笑)。そして、最後には誰しも賢くなっているのでしょう」。
「そう、考えれば考えるほどなにかを気づかされるのが『ばらの騎士』の奥深い魅力なのです」。